川崎伊達家・川崎砂金氏の墓(陽廣山龍雲寺)

川崎伊達家の墓所

新たに整備された川崎伊達家墓所

  川崎伊達家は、仙台伊達家3代綱宗の子、村和(むらより)の長男村栓(むらあき)が享保7年(1722)の300年ほど前に伊達家一門に列し、川崎要害を賜り2,000石の知行地を与えられ、初代川崎伊達家当主となりました。

 

初代村詮の父、村和の話をします。

村詮の父、村和は、仙台伊達家3代藩主綱宗、母は三沢初子の二男として生をうけます。兄、綱村は仙台伊達家4代藩主となっており、弟の宗贇(むねよし)は、宇和島藩2代藩主に跡を継ぐ子がなかったので、宇和島藩3代藩主になっています。

 村和は、仙台藩より石巻市桃生町中津山に3万石をもらい仙台支藩の中津山藩主となります。しかし、元禄12年(1699)9月に旗本と刃傷沙汰を起こし、幕府より喧嘩両成敗で、宮城郡野村に逼塞(ひっそく)謹慎となりますが、享保4年(171912月に赦免されます。

 

 中津山藩は桃生豊里インターと旧北上川の間に中津山の地名があり、また中津山城跡もあります。

 

 川崎伊達家の話に戻ります。

 和の子、村詮は享保7年(1722)に仙台藩より川崎要害をもらいうけます。村和は享保7年6月2962歳で亡くなり、墓は仙台北山の東昌寺にあります。

 川崎伊達家初代村詮は延享(えんきょう)元年(174447歳で亡くなっています。

 2代村敏は岩出山伊達家より、村詮の養女りつの婿(むこ)として入ってきており、宝暦(ほうれき)3年(1753121442歳でなくなっています。養女りつは村詮の実の妹で、婿をとり後継ぎとしました。

 3代村熈(むらひろ)は、村敏の長男で寛永11年(1799)6月1060歳で亡くなっています。

 4代村(むら)(かた)は、水沢伊達家よりきており、天保(てんぽう)9年(1838)2月1062歳で亡くなっています。

 5代宗和(むねより)は、岩出山伊達家よりきており、天保5年(1834)7月1947歳で亡くなっています。

 6代邦和(くにより)も岩出山伊達家よりきており、天保14年(1843)9月1434歳で亡くなっています。

 7代邦賢(くにかた)は邦和の長男で、明治14年(188110月3日45歳で亡くなっています。お墓は東京にあり、川崎伊達家菩提寺龍雲寺には慰霊塔が残されています。


川崎砂金(いさご)氏の墓所

 砂金氏の姓は「菅原」。先祖は一説では源義経の家臣で衣川の合戦の後、現在の川崎町本砂金地区に来て、砂金村守護人になったとも、砂金蔵人(くらんど)大夫(だゆう)常重(つねしげ)が延元(えんげん)年間(133640)に浪人して奥州に来たともいわれるが、「伊達世臣家譜」等の史料によると、この地域に割拠した小野、支倉、砂金の諸氏は皆同族で柴田郡小野村を領していた小野雅楽之允(うたのじょう)の兄弟からの別れである。 

 砂金氏は文明年間(146987)に伊達氏に仕え軍功多く、天文(てんぶん)12年(1543)には砂金常久(つねひさ)、貞常(さだつね)父子が砂金氏所領の村々に攻めてきた山形の最上(もがみ)勢を押し返したという働きをしました。 

 関ヶ原の戦いの後に11代右衛門常房(つねふさ)(実常(さねつね))が笹谷街道を押さえる位置に川崎城(のちの川崎要害)を築城し、最上氏に備え現在の川崎町の町割りを行った。 

 仙台伊達家の中でも「一族」という高い家格となり、仙台に大きな屋敷を拝領(現在の東北学院大学土樋キャンパス敷地)、家中数も最大時、侍77人、足軽100人と重きをなしたが、元禄15年(1702)世継ぎがなく砂金氏は断絶した。

 

現在判明している砂金氏の墓碑は、曹洞宗陽廣山龍雲寺にある5基のみである。

 

 11代 常房(実常)・・・初代川崎城主 

  法号 龍雲寺殿門州禅無大居士 1628年没(墓碑が無く墓石自体が小さいので本人のものか怪しい) 

  12代 隆(たか)(つね)とその夫人 

  法号 清浄院殿堅庵叟固大禅定門 551677年没 

  法号 月窓貞心大姉  同 妻  1659年没

 

 13代 昌(まさ)(つね) 

  法号 樹簾香公大禅定門 231675年没

 

 14代 藤(ふじ)(つね)((かつ)(つね)) 

  法号 保壽院殿来庵宗本大禅定門 311687年没 

 

※嗣子がなく断絶した15代重常(しげつね)は法号は判明してるも墓は不明。 

 法名 華陽院殿実参了悟大禅定門 1702年没

 

10代以前の墓碑は本砂金の砂金氏菩提寺であった龍虎院常正寺(りゅうこいんじょうしょうじ)が廃寺となったため墓碑は現在も見つかっていない。

 

11代常房の出生秘話 

 10代貞常は娘を伊達政宗の側室に献上、その間に誕生したのが11代常房との説がある。大阪の役での抜け駆けの軍令違反もとがめられず、むしろ賞され「一族」に列せられたことや、川崎城築城に際し、種々の便宜を計ってくれたことなどからも頷ける。 

 

※曹洞宗陽廣山龍雲寺は元和4年(1618)砂金常房が敷地田畑を寄進し建立させた。明応覚永和尚が開山、砂金氏の菩提寺としてスタートしたが、砂金氏断絶後は同地を知行した川崎伊達家の菩提寺となった。