笹谷旧道 笹谷宿⇒栃⇒函水⇒化け石⇒吹き越し⇒駒泣かせ⇒乾⇒平仙住寺⇒有耶無耶の関⇒六地蔵⇒八丁平
笹谷街道は川崎町と山形市を結ぶ峠道で千年にわたって人々の暮らしや歴史をつないでいる道です。
10世紀ごろ日本に律令国家が成立し、朝廷が都から東北へと東山道を造成したことに始まり、陸奥(宮城)と出羽(山形)を最短で結ぶ道でした。幕藩時代は仙台藩と米沢藩を結ぶ主要ルートとして参勤交代にも使われ、現在は国道286号線として継承されています。
笹谷街道3つのルート
①宮-猿鼻(円田)-四方峠-川崎-笹谷-関沢-山形
平安時代末期には開通していました。街道沿いに前九年の役(1051~1062)に関する伝承や地名が多くあります。現在、蔵王町永野から川崎町に至る山間部が旧羽前街道保存地区として整備されています。
②長町-茂庭-北赤石-碁石-小野-川崎
仙台城築城後に開かれた長町スタートで、現在の国道286号線とバイパスを除いて、ほぼ一致しています。旧国道286号線です。このルートは仙台~山形間の最短路であったことから物資の運搬に利用されました。
③船迫-沼辺-小泉-村田-支倉-小野-川崎-笹谷
江戸時代には紅花街道ともよばれ、出羽の生活文化がもたらされた。しかし鉄道東北本線が開通すると流れの方向が逆転してしまいました。幕末には出羽三山に参詣するため、笹谷街道を通行する庶民は一日200~300人にのぼったと言われています。
仙住寺は380年ほど前の寛永19年(1642)仙台伊達家2代藩主忠宗の寄進により、仙台市青葉区大仏通りにあった真言宗宝光院の末寺として、真(しん)海(かい)和尚が開山したと伝えられています。
建立された当初は、お助け小屋の役目を果たしており、別当には僧侶があたり、藩からは7人扶持が与えられていたと言われています。
笹谷峠は山形領と仙台領を結ぶ主要道路として、物資の運搬などに盛んに利用されたため、仙住寺の存在は旅人にとって心強いものがあり、寒さの厳しい冬の期間は頼もしいものであり、心の支えになったことと思われます。
標柱が立っている場所に仙住寺がありましたが、慶応3年(1867)に火災で焼失。その後、明治初めに再建されましたが、明治になって新道ができ、訪れる人もなくなって荒れ果てたため明治45年7月17日に笹谷町上方に移築され、笹谷観音堂と呼ばれて現在も地域のよりどころとなっています。
平成28年6月7日に川崎町文化財保護委員の先生方と川崎町歴史友の会で調査をし、そのとき表面の土を少し削り取りますと、広い範囲から炭粒が出てきました。火災で焼失した仙住寺の建物が、この場所にあったことは確かのようです。
周りを見ますと、建物の土台や井戸跡、石垣や手水鉢などがあり、かつての仙住寺が偲ばれます。
この仙住寺が、どのような寺だったのか知るためにも、本格的な発掘調査が必要と思われます。
十一面観音が本尊。一木造り等身大の観音立像が納められ風土記に仙住寺本尊行基作と記載されています。笹谷峠仙住寺に寛永19年(1642)建立といわれ、慶応3年火災に会い焼失しましたが明治初年再建されたものの、明治30年に新道が開通してからは寺の荒廃がひどく、明治45年現在地に移築されました。
笹谷峠は仙台と山形の最短距離の街道として、昔から夏冬問わず歩かれてきました。しかし、冬の笹谷峠は気象が厳しく、遭難もたびたび起きました。特に峠の頂上には、なだらかな平原が約八丁(900m)続く難所があり、八丁平と言われてきました。
昔から伝わる伝説では、冬に伊達領から最上領へと荷を運ぼうとした6人の人夫が荷を背負ったまま凍死したので、その霊をいさめるためと旅人の道しるべとして、6つの地蔵が等間隔に建てられました。
この地蔵は等身大で台座も含めると2m近くになり、真冬の深雪時でも頭が見えたといいます。
その後、この地蔵は倒れて笹に埋もれて所在不明になっていましたが、昭和58年までにすべて発見され、伝説は証明されました。
笹谷街道の宮城県と山形県の境にある笹谷峠にあるのがこの有耶無耶の関です。
道の奥(陸奥)は都から遠く離れた未開の地、人里離れた峠道の深い山と谷は昼なお暗く、峠の頂上は草木も生えないほど荒涼として霧が立ち込めたのであろう。その思いが「むやむや」「もやもや」になったのか。ときには「ふやふや」となり「うやむや」というようにいろいろな思いがあったと考えられる。
諸説あるが、大昔「山鬼(さんき)(山中のもののけ)」が住んでいて、旅人が来ると大声を上げて脅し、捕まえて餌食(えじき)とした。ところが番の神鳥がいて、旅人が山鬼がいるのを知らないで関所にやって来ると神鳥は旅人を見て、山鬼の有無を確かめ山鬼がいると「有(う)や」、いない時は「無(む)や」と鳴いて山鬼の存在を知らせたので、旅人は難を避けることができた。このことから「有耶無耶の関」というようになったという。
「群書(ぐんしょ)類聚(るいじゅう)」に「有耶無耶の関」が詠まれている。
【霧ふかき とやとや鳥の 道とへば 名にさへ迷ふ 有耶無耶の関】※永久4年(1116)
もう一つ 古歌
【もののふの出るさ入るさに枝折(しおり)する とやとや鳥の有耶無耶の関】
この古歌は蝦夷平定に出羽に向かう兵が峠を越えるとき、道しるべとして木の枝を折りながら通る様子を詠んだものです。
笹谷街道の川崎宿と奥州街道の宮宿を結ぶ四里二十丁(約16km)の道のりには、前九年の役での源義家伝説の毒清水、黒瀧不動尊。法華一字一石、四方峠には首なし地蔵など数多くの史跡が点在します。江戸時代には参勤交代にも使われ賑わいました。現在、車が通れる道路は続いていますが、悪路ですので十分気を付けてください。
前川長坂山に黒滝不動尊が祀られており、そこに通じる羽前街道(猿鼻街道)の入り口に、水上の一里塚(前川中西)があり、その脇に大鳥居が設置されました。街道の整備も行われ、この鳥居をくぐって新しく整備された街道を進むと黒滝不動尊にたどり着きます。
黒滝不動尊の歴史は、前九年の役(1062年)源頼義・義家の軍が安倍貞任の軍を刈田郡越河の関で破り、貞任軍は三方に分かれて敗走したが、その一部は四方峠(羽前街道頂上付近)を越えた。その折にコンコンと湧き出る清水でのどの渇きを癒して休息したが、追走してくる源氏軍も必ずここで一休みするに違いないと毒を放って逃げ去って行った。(毒清水の伝承)
何も知らない義家軍がしばしの休息をとったとき、夢枕に立った神が言うには「この先の清水に毒が放たれた、飲んではならない。」と。不思議なこともあるものよ、と思いながら下ってくると確かに清水がある。のどの渇きを我慢し部下を戒めてさらに下ると滝の音がする。嬉しいと駆け下ってやっと喉の渇きを潤すことができた。義家は喜び、神に感謝して六部(巡礼僧)に背負わせていた不動明王像を滝の真下に安置して追走を開始したという。
水しぶきは真っ白、岩肌は真っ黒、まことに対照的で美くしい。ここに「黒滝不動尊」の名が生まれたと伝える。
境内に社殿はなく祭壇のみで、滝中の不動明王像だけでなく境内にも安置された不動明王像もある。この場所は神秘的でおごそかな雰囲気を醸し出しています。
また羽前街道は、商人や物流、旅行者だけではなく江戸時代には出羽国諸藩(山形・秋田)の参勤交代や役人にも利用されたという。
街道入口の大鳥居と整備された旧街道で、川崎町にまた新たな名所、パワースポットが誕生しました。白黒のコントラストが映える(ばえる)撮影スポットとしても、一度足を運んではいかがでしょうか?