壮大な壕の連続!土の芸術!中世連郭式山城跡
≪ 歴 史 ≫
・前九年の役(1056~)の時、安倍貞任が精鋭4000と川崎柵によって戦う。この柵を地名から中ノ内城とした。
・戦国末期1575年(天正3年)ごろ、砂金(いさご)氏8代常久が築城。11代常房が川崎城に移転(1609年)するまで居住。(38年間)
・笹谷街道と羽前街道に接し、交通の要所であり、山形最上氏、米沢上杉氏と隣接しており伊達氏にとって重要な防衛拠点であった。
≪ 特 徴 ≫
・中世連郭式山城、東西南北ともに200m、本丸、二の丸と大規模な土塁と空堀で馬出曲輪を構え、そこに内枡形を二つ重ねてつけた異様なほど技巧的な虎口をもつ。
・砂金氏(1500石程)の動員人数に対して曲輪が広すぎるため、関ケ原の頃に上杉対策に増援を考え、外曲輪(作りが戦国時代・伊達政宗時代では)を増設したのではと考えられる。※3000人位が籠れる二の丸
・連郭枡形周辺に石積み(野面積みの石垣)が残っている。
・かなり本格的な山城で、現在でも破壊されず遺構がしっかり残っている。特に三重に連なる壮大な土塁と技巧的な虎口は「土の芸術」である。城下町として山形自動車道工事に関わる調査で分かった城下町「本屋敷」遺跡(防御性をもった町割りで外曲輪の可能性もある)と関ケ原前という歴史的背景・街道沿いと近隣有力大名との確執という地理的背景から歴史的に重要な価値があると思われる。
≪本屋敷遺跡≫中世屋敷割(陶磁器・刀装具・古銭・石臼)
発掘調査の結果、16世紀後半の集落跡で東端と西端に空堀が設けられるなど、集落全体が防御施設で囲まれた「町曲輪」の可能性が高い。
≪2021年度測量調査しました≫
※3連虎口整備しました!
※立野川沿いに新遺構が発見されました。川を挟んだ対岸にある本屋敷遺跡は自動車道建設に伴う発掘によって存在が明らかになった中世遺跡ですが、城とその両者を結びつける可能性が高い、大変珍しい防御施設(土塁や曲輪)や荷上場と考えられる遺構が発見されました。
《2023年4月 看板設置》
手作りの案内看板が25か所に設置されました。製作は地元の高校「岩沼高等学園川崎キャンパス」の生徒さんです。これで山城初級者でもわかりやすく歩けると思います。
≪登城は≫
町道沿いに町民バス「本城」のバス停近くに本城の説明板がある。車は説明板横に3台程度停められる空き地がある(私有地であるが所有者が見学に来る人のために整備してくれている)。説明板に資料を入れたポストがあるので、自由に持っていくことができる。ここから二つの登城口があるが、どちらも私有地を通るのでマナーを守ってほしい。
①説明板から右手に100mほど歩くと左側奥に民家が見えるが、この民家に入って行きすぐに古い蔵屋敷が左手に見える。この手前を左に曲がると大手道に繋がる。
②説明板から左側に細い舗装道路を100mほど上っていくと、右手に東屋が見える(個人住宅の庭の東屋です)。その脇から搦め手口に入って行ける。東屋近くの畑仕事をしているお母さんをみつけたら「本城見学に来ました。通らせてください。」とあいさつしましょう。
≪注意≫
・冬以外、クマを何度か見かけています。熊鈴や音のなるものを持っていきましょう。
・北側は断崖絶壁になっており、特に馬出曲輪あたりは崖が崩れていてえぐれています。あまり崖の近くまで行かないようにしましょう。