上楯城跡(かみたて) 支倉字館山

 見事な空堀と土塁の連続!大型山城跡!

 

天文14(1545)年、支倉常長の祖父、支倉常正が築城。本丸、二の丸、三の丸、曲輪、馬場跡からなる東西300m、南北200mに及ぶ大型の連廓式山城跡です(遺跡の規模は東西南北それぞれ約500mにも及びと考えられている)。比高は約70m。北側は断崖。東南面は数段のそれぞれの平場で築城され、特に四方にめぐらされた土塁と巨大な空堀が見所です。

 

 「支倉家譜」によれば、戦国時代末期、天分の乱(1540)に際し、はじめ伊達稙宗方に属したが、のち寝返って晴宗方に味方し、二本松の戦いに戦功をあげて所領安堵され、上楯城を築城したとされます。天正4(1576)年の伊達輝宗と相馬盛胤との間で行われた伊具郡丸森での戦いに近郷の砂金・小野両氏とともに参戦。同16(1588)年の伊達政宗の大崎攻めでは、小野雅楽之充とともに出陣しています。

 


≪登城は≫

 

①城跡南東の二の丸近くまで道路があり、駐車場、トイレがある。案内看板の所に資料を入れたポストがあるので、自由に持っていくことができる。ここから二の丸に向かう道がある。

 

②県道119号線沿いに「イーレはせくら王国(旧支倉小学校:支倉字塩沢9)」がある。駐車場・トイレあり。ここの校庭(駐車場)から校舎を見て左端から円福寺(支倉字宿154)に登っていく道がある。円福寺駐車場の案内看板の所に資料を入れたポストがあるので、自由に持っていくことができる。ここから三の丸に向かう道がある。

 

③「イーレはせくら王国」の前の町道を右に向かうと、円福寺に向かう道がある(標柱あり)。そこを通り過ぎ、また右に向かう道路わきに上楯城の標柱がある(低いので見落とし注意)。ここをまがって100mぐらい歩くと右手に赤い鳥居が見える。この鳥居をくぐり、まっすく行くと大手口にいたり、尾根沿いに登っていくと三の丸にたどり着くが、整備されていない時に行くと藪漕ぎをしなければならない。

 

オススメは、あまり歩きたくない人は①、しっかり麓から歩き見たい人は行きは②で帰りは③をおすすめします。

 

≪注意≫

遭遇したことはないのですが、クマとイノシシが生息しています。熊鈴など音のなるものを持っていきましょう。

≪追伸≫2020年春、本丸・二の丸周りの西側土塁、三の丸に続く大手道を草刈りをしたので、遺構が以前より見やすくなりました。

※2021年、城跡北西部(本丸と二の丸間の奥)に竪堀・土塁・空堀を発見しました。多少草刈していますので、遺構は見れると思います。

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